2013年 01月 22日
帯広市立帯広第六中学校
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3年前に僕の中学時代の母校「六中」が無くなった。
正確には第三中学校と統合したのだが、学ぶ建物は三中に集約された。
悲しいが、子供の少ない地域は無駄を省く為にも合理的に成らざる得ないのは致し方ない現実なのは確かだ。 僕が通っていた頃の校舎は赤い屋根の校舎だが、絵には描いてないが既に奥に3階建ての建物が新しく建っていた。
冬の時期は石炭ストーブで暖をとっていて、ストーブの周りは暑く廊下側や窓際はコートやジャンパーを着たいくらいに寒く教室内の場所に寄っては気温の差が激しかった事を覚えている。
入学当時7クラス有った教室だが、僕は7組で担任は科学専門の矢竹先生でした。
後にクラス替えで2年3年とも同じクラスメートのまま阿部先生の元で卒業を迎えたのだが、卒業式のクラス退場テーマは松山千春の「旅立ち」だった懐かしい記憶もある。
1年生初めて座った席の隣が、あだ名で言うと「ズッチャン」だったのだが、そんな友人も僕もすっかり50歳のオッサンになってしまった。
34年前の出来事が刻み込まれた校舎は無くなったが、思い出を想い返しながら「懐かしくて描いてみた・・・」そんな独学の絵なんです。
2年前(2012.6.17)、廃校の年に訪れたときの記事
http://kimuradesu.exblog.jp/15819140/
正確には第三中学校と統合したのだが、学ぶ建物は三中に集約された。
悲しいが、子供の少ない地域は無駄を省く為にも合理的に成らざる得ないのは致し方ない現実なのは確かだ。
冬の時期は石炭ストーブで暖をとっていて、ストーブの周りは暑く廊下側や窓際はコートやジャンパーを着たいくらいに寒く教室内の場所に寄っては気温の差が激しかった事を覚えている。
入学当時7クラス有った教室だが、僕は7組で担任は科学専門の矢竹先生でした。
後にクラス替えで2年3年とも同じクラスメートのまま阿部先生の元で卒業を迎えたのだが、卒業式のクラス退場テーマは松山千春の「旅立ち」だった懐かしい記憶もある。
1年生初めて座った席の隣が、あだ名で言うと「ズッチャン」だったのだが、そんな友人も僕もすっかり50歳のオッサンになってしまった。
34年前の出来事が刻み込まれた校舎は無くなったが、思い出を想い返しながら「懐かしくて描いてみた・・・」そんな独学の絵なんです。
2年前(2012.6.17)、廃校の年に訪れたときの記事
http://kimuradesu.exblog.jp/15819140/
by hiroyoshidesu
| 2013-01-22 02:25
| ・フォト絵に/photoEny
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